● (有)ヤマト商会と増田鉄工所 5
実際の所、注文の増加に対応するには、やはり当社だけでは対応できない為、部品加工メーカーの数も当初より増え、
ヤマト商会もオートバイの組み立て工場を新設し、
生産台数も600台/月まで増やしました。

この頃、「1000台/月」を目標に各社頑張っていました。

協力
 会長 増田 幸太郎(故)

さてここで、2ページ前からラッキー号の形が変わっている事にお気付きでしょうか?
上の写真のラッキー号は排気量が90ccから125ccに増えているのです。

オートバイの排気量が最大90ccから125ccに法律が改正になったからです。

ヤマト商会もいち早く、ラッキー号に125ccのエンジンを載せたのです。

125ccのラッキー号が出来ましたが・・・

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しかしこのラッキー号、

           『走りません!
                    出来ているのは
                               形だけ!』


ヤマト商会は、「必ず動くオートバイにするから」と言って、
安全自動車で発表会を盛大に開催し、当社もそれに協力しました。

しかし、それがヤマト商会と当社の運命を左右する事になるのです。

ラッキー号は、いつまで経っても、まともに走らず、走ってもすぐにエンジンが焼き付いてしまう有り様でした。
そうこうしているうちに、資金難になり、
(有)ヤマト商会は昭和30年5月、店をたたむ事になってしまいました。

ラッキー号は、この年で生産中止となり姿を消したのでした。

当社はその後、債権回収などに奔走したのですが、
回収は困難で当社も精算せざる得ませんでした。

その後、現会長は「オートバイの仕事は、もう懲り懲りだ!」
と思ったそうです。

しかし、現在もオートバイ産業に関わっているのでした。